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原子力基本法の第一条「原子力の利用推進」を改正すれば、原発は法的根拠を失います。
法律を変えられるのは立法府(=国会)だけ。国会議員を選ぶのは他でもない私たち国民。 行政府(=経産省等)は法律に従って動くだけの存在。ましてや電力会社は単なる事業者。 だから、国民の意思が変わり、投票行動まで結びつけば原発は廃止できます。 皆の総意を結集して #原発とめよう !!!
世界標準を見ろ、「ハーバード大学図書館、朝4時の風景」(フィクション) から。実際は韓国の自習室らしいが。
⒈今居眠りすれば、あなたは夢をみる。今学習すれば、あなたは夢が叶う。 Sleep now and a dream will come out; Study now and a dream will come true. ⒉あなたが無駄にした今日はどれだけの人が願っても叶わなかった未来である。 Today you wasted is tomorrow loser wanted. ⒊勉強に励む苦しさは今だけであり、勉強しなかった苦しさは一生続く。 The pain of study is temporary; the pain of not study is lifelong. ⒋明日やるのではなく今日やろう。 Better do it today than tomorrow. ⒌時間は絶えず去りつつある。 The earliest moment is when you think it's too late. ⒍学習は時間がないからできないものではなく、努力が欠くからできないものである。 You never lack time to study; you just lack the efforts. 7.幸福には順位はないが、成功には順位がある。 There might not be a ranking of happiness but there is surely a ranking of success. 8.学習は人生の全てではないが、人生の一部として続くものである。 Studying is just one little part of your life; loosing it leads to loosing the whole life. 9.学習する事が人生の全てとは言わないが、学習すらできぬものに何ができるのであろうか。 Studying is just one little part of your life, but what can you do if you can't even study? 10.人より早く起き、人より努力して、初めて成功の味を真に噛みしめる事ができる。 Waking up earlier and working out harder is the way to success. 11.怠惰な人が成功する事は決してない、真に成功を収める者は徹底した自己管理と忍耐力が必須である。 Nobody succeeds easily without complete self-control and strong perseverance. 12.時間が過ぎるのはとてもはやい。 Time passes by. 13.今の涎は将来の涙となる。 Today's slaver will drain into tomorrow's tear. 14.犬の様に学び、紳士の様に遊べ。 Study like a Dog; Play like a gentleman. 15.今日歩けば、明日は走るしかない。 Stop walking today and you'll have to run tomorrow. 16.一番現実的な人は、自分の未来に投資する。 A true realist is one who invests in future. 17.教育の優劣が収入の優劣 。 Education equals to income. 18.過ぎ去った今日は二度と帰ってこない。 Today never comes back. 19.今この瞬間も相手は読書をして力を身につけている。 Even at this very moment your competitors keep reading. 20.努力無しに結果無し。 No pain, No gain.
背景が黒いと読み終わった後目がチカチカするので以下コピペ。
~~ アレックス氏によるアンドロメダ星人からのお話。 われわれの存在している銀河には創造主がいて、その存在はアンドロメダ星人も、またプレアデス星人もほかのどの種族もよくわかっていないそうで、クリエイターが宇宙を創造し、ワームフォールなどをつくっていたそうでそれを発見した種族が移動するようになったそうです。 フィラデルフィアの実験のときに次元に穴があき、別のタイムラインができてしまったそうで、そこから得たいの知れない存在とかが流れて入ってくるそうになったそうです。この穴について修復をする存在を外宇宙から探してきたそうです。 さて、地球人は2つの種によって創造されました。元々の創造主は人類を自分たちで進化し、かつ創造主の力をつかって自由に表現できるようにつくりました。 ところが地球にやってきたネガティブな生命体がやってきて、遺伝子を操作し、エイリアンを妄信して従うように奴隷の遺伝子を植え付けました。 地球に降り立ったネガティブなエイリアンたちはハイテクノロジーをもっていたので、自分たちそれぞれのグループを支配して資源をつくらせていました。もともとの人間は農業をするようにつくられているそうです。 ネガティブなエイリアンはナチスと取引して、マインドコントロールおよびハイテクノロジーなどを伝えて、地球の人間を植民地化してしまいました。そのために戦争がおこり、人類は苦難の道を歩んできました。 彼らはこれまでさまざまなありとあらゆる手段を講じて我々をたたきのめしてきました。経済危機、借金、薬、ワクチンなどによる支配にはじまり、今度は水と食料を握って、かつインフルエンザのワクチンによって遺伝子破壊し、我々に永久的にダメージを与えようとしています。 なぜここまでしなければならないのでしょうか? しばらくその理由を考えてみてください。 彼らは恐れているのです。 人間の神からもらった創造エネルギーを。 私たちは無限の創造エネルギーをもっています。ネガティブなエイリアンは創造主の創造パワーをもった地球の人間を恐れているといいます。私たちの無限の可能性を知ってしまえば、もはや彼らの資源としてなりたたなくなるそうです。 なお、イルミナティの起源はアトランティスの神官だそうでネガティブな地球外生命体が起源だそうです。 ☆☆☆ さて、アレックス氏の話によると、ネガティブな勢力を打ち負かしていくには、私たちの創造エネルギーをつかってホログラフィックな社会を構築していくことにあるそうです。 つまり、わかりやすくいえば、今の世の中を打ち壊していったいどんな世の中にしたいのか、そこに自分たちの生命エネルギーを投入していくのです。これはだめ、あれはだめとか、政府はだめ、マスコミはだめ、でなく、自立して自分の人生を自分の責任で構築していくことだそうです。 アンドロメダ星人は自己責任を養うことの重要性を何度も強調していたそうです。つまりこれまでは世の中に不満でつらい現実に逃避して、神や天使やガイドに助けを求めて、自分は何にもしないで彼らに何でもやってもらい、救ってください、助けてください、愛と光でということをたくさんやってきました。 しかし、そうすると自分の創造力は発揮されず、いる必要性がなくなります。何にもしなくて外側の世界が何かをしてくれて、自分たちには何の責任も行動力もないというのがこれまでの人類でしたが、新しい次元ではそれは通用しなくなり、自分が責任をもってどんな自分になりたいかをフォーカスしてそこにエネルギーを注いでいくというのが重要だそうです。 多くの人々がこの人類の困難な時期をエイリアンやガイドなどに依存して助けてくれると信じていますが、アンドロメダ星人はそれを絶対にしないそうです。自由意志と自由表現。 もし人類が救いを求めて祈れば地球外生命体はその創造エネルギーにひきよせられて、地球人の意識は強いので、ひきよせるそうです。そのため、もしわれわれが祈って助けを求めれば何らかの存在がひきよせられて出現します。 しかし惑星をつくるような高度な知的生命体はわれわれに決して干渉しません。その理由は、一度干渉したらずーっと次も次もときりがなくなるからです。 しかし、今回のようなアセンションは、(地球だけでなくアンドロメダ星人も他の惑星も生命体はすべてアセンションするそうです)かならず別の進んだ文明が助けてくれるそうです。そのため今世界中でコンタクトがおこなれているそうです。 これからはメンターリングが行われ、高度な文明になっていくときに、彼らから知恵を授かることになります。そのさいにもっとも重要なことについて、質問がおよんでいました。 アレックス氏は、アンドロメダ星人に、次のようなことをずっと教わったそうです。 私がいったい何になりたいのか。 いったいどういう人生を、なにを創造するのをもとめているのか。 もし自分の人生に不満があるのであれば、それは自分の責任である。なぜなら自分たちの人生は自分たちの意識がつくっているから。 だから、どういうものを創造したいのか、そこに意識を注ぐように励まされ続けたそうです。 どんな世の中にしたいのか。 どんな人と一緒にいたいのか。 どんな考えをもちたいのか。 どんな映画を見たいのか。どんな時間をすごしたいのか。 さまざまことに意識をむけて、それを作り出していくことで、創造のプロセスに入ります。 今後われわれの文明が変わり、フリーエネルギー(すでにある)を使ってさまざまなことができるようになります。そんなとき高度な知性をもった存在に知恵を教わるときでも、彼らは必ず自分たちの責任をもって、それを扱うようにと伝えてくるだろうということでした。 私たちの未来をどんなものにするのか。 それをアイディアを出し合って、グループで創造するのが一番いいそうです。なぜならグループの話し合いが進めば進むほど、エネルギーがあがり、パワーが得られます。 アンドロメダ星では、政府によって基本的な生活にかかる資源、食べ物、水、住む場所などはすべて無料だそうです。お金がないのです。 政府は生きるための楽しむための基本的はものをすべてサポートし、人々はみんながよりよくなるために、アイディアとスキルを磨いて、人のために自分の創造エネルギーを使って生きているそうです。すべての知恵がわかちあわれすべての人間が生きることを楽しんで、目的を果たすことができるそうです。 地球もそんな時代がくると思います。 またアンドロメダ星人は間違いを恥と思わないように強調したそうです。私たちは学びのプロセスにあり、あやまることがあたりまえです。そのことで自分を責めないで、恥と思わないで、失敗をおそれないでやることが重要だと伝えていました。 なんとなくここにきて、あたらしい文明の光が見えてきたように感じます。未来をどう描くのか考えるのが楽しみになってきました。 そのような時間をすごすことが、自分になるということなんだと思います。 応援よろしくおねがいします!
「福島原発の放射性物質、西日本にも」研究チーム解析
東京電力福島第一原発の事故で大気中に放出された放射性物質が、西日本や北海道にも拡散しているとの解析を日米欧の研究チームがまとめた。15日の米国科学アカデミー紀要電子版に発表する。文部科学省は長野・群馬県境で汚染の広がりはとどまったとの見解を示したが、以西でも「わずかだが沈着している可能性がある」と指摘した。 米宇宙研究大学連合(USRA)の安成哲平研究員らの研究チームは、大気中の汚染物質の拡散を20キロ四方で計算するシステムを使い、事故後の天候や雨による放射性物質の降下を加味してシミュレーション。文科省によるセシウム137の測定値で補正して、3月20日から4月19日までの沈着量を算出した。 分布状況は文科省の観測の傾向と一致していたが、岐阜県や中国・四国地方の山間部で、原発由来の放射性物質が沈着している可能性が示された。北海道にも広がりがみられた。 ![]()
http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000001110260003
東日本大震災で出た災害廃棄物の受け入れ問題で、当初前向きな姿勢を示していた府内7市町が方針を撤回した。今月、環境省の再調査に「受け入れ困難」などと答えた。放射性物質への不安を背景に、市民らに安全性を説明できないと判断したという。 受け入れの意向を撤回したのは京都市、舞鶴市、福知山市、亀岡市、伊根町、船井郡衛生管理組合(南丹市、京丹波町)。環境省が4月に実施した調査では、受け入れ可能な廃棄物の種類と量を回答していた。 京都市は、生ごみや家具類を年間5万トン受け入れられるとしていたが、今回は「受け入れは検討していない」と答えた。市は8月の「五山送り火」で岩手県陸前高田市の松の薪(まき)を燃やす計画を進めたが、放射性物質の検出で断念した経緯がある。担当者は「現状では、市民に安全性を説得する材料がない」と話す。 舞鶴市の担当者は「当初は被災地が大変な中、全国の自治体が努力すべきだと考えて手を挙げたが、市民への説明は難しい」と言う。伊根町は「専門家の意見を聴くといった準備ができておらず、慎重な対応が必要と判断した」。船井郡衛生管理組合も「地元の理解がないと受け入れられない」と説明している。 福知山市は当初、生ごみなら年間1500トン受け入れられるとしていた。担当者は「今回の調査はがれき処理を想定しており、対応は困難だ」と言う。 一方、相楽東部広域連合(和束町、笠置町、南山城村)は調査に対し、年間70トンのがれき受け入れが可能と答えた。担当者は「災害はお互い様だから、できるだけ受け入れたい。もちろん、安全性の確保が大前提だ」と話す。 環境省は今回、災害廃棄物を焼却する場合は、放射性セシウム濃度が焼却炉の種類によって1キロあたり240~480ベクレル以下であれば問題ないとする指標を自治体側に示した。それでも、「国の基準は根拠がわからない」(亀岡市)との声も出ている。環境省の担当者は「受け入れ困難とした自治体にもデータを提供し、今後も検討を呼びかけたい」と話している。
このツイートから。
2000Bq/kg ←日本の基準 1000Bq/kg ←WHO 4Bq/kg ←ドイツの子供 飲み水は、 300Bq/L ←日本 0.5Bq/L ←ドイツ 「今のウクライナは25年後のニポン」から。 ~~ ウクライナの首都キエフは、当時の人口が250万人、旧ソ連で3番目に大きな都市だった。だけど、チェルノブイリの原発から130キロも離れた街なので、政府は住民たちに避難指示を出さず、住民たちが原発事故のことを正式に知らされたのは、1986年4月29日の夜のテレビニュース、つまり、事故から2日半も経ってからだった。だけど、実際には、市民の多くが、クチコミで事故のことを知ってた。そして、原発が大爆発を起こしたというのに、正確な情報が何も入って来ないことから、パニック状態に陥る人たちも現われた。 原発からの距離と風向きの関係で、キエフの放射線量が上昇し始めたのは、事故から3日後の4月30日からだと報告されてる。そして、政府からの避難指示はなかったけど、市民の半数近く、約100万人が、2~3週間のうちに、自主的に避難したと言われてる。 で、チェルノブイリの場合は、事故から9日で原子炉をコンクリートで固めたから、あとは「すでに撒き散らされた放射性物質を何とかする」ってことがポイントだったんだけど、広範囲に渡っての除染なんて一朝一夕には片付かない。そのため、政府は、とにかく住民のほうをまず移住させ、それから除染に取り掛かることにした。ここまでの流れは、どう考えても、ニポン政府の今回の対応より、遥かに人道的と言えるだろう。 ウクライナでは、事故後、住民の移住に関するガイドラインを法律で定めたんだけど、これがとっても良くできてるもので、セシウム137、ストロンチウム90、プルトニウムなどの放射性物質ごとの土壌汚染度と、年間の被曝量とをそれぞれ計測して、移住レベルに対応させてた。年間の被曝量だけで言えば、5ミリシーベルト以上が「移住義務区域」、1ミリシーベルト以上が「移住権利区域」、0.5ミリシーベルト以上が「放射能管理強化区域」だった。 ニポンでは、年間の被曝量がウクライナの「移住義務区域」の4倍にあたる20ミリシーベルトを超える地域だけを「計画的避難区域」に指定した上に、この指示を出したのが事故から1ヶ月後、実際に避難させたのが2ヶ月後だってんだから、あまりにも遅すぎるし酷すぎる対応だ。この中には、年間の被曝量が100ミリシーベルトや200ミリシーベルトを超える地域も含まれてたんだから、この地域に2ヶ月間も留まってた人たちは、すでに数10ミリシーベルトも被曝してるのだ。 その上、ニポン政府は、子供にまで年間20ミリシーベルトの被曝を押し付けた。繰り返すけど、ウクライナでは、もっとも高い規準値が「5ミリシーベルト以上」で、この数値のエリアの住民は、政府によって強制的に移住させられたのだ。勘違いしないでほしいのは、これは一時的な「避難」や「疎開」じゃなくて、「移住」だってことだ。つまり、ウクライナでは、年間の被曝量が5ミリシーベルトを超えるエリアは、もう人間が暮らすことができない土地だって判断したのだ。 ‥‥そんなワケで、年間の被曝量が5ミリシーベルトを超える土地の住民に移住を義務づけたウクライナ政府と、子供にまで20ミリシーベルトの土地で暮らすことを強要したニポン政府、あまりにもカケ離れた両政府の対応だけど、さらに驚くのが、食べ物に関する暫定規準値だ。ニポンでは、水も、野菜も、果物も、肉も、魚も、ほとんどの食品の規準値を1kgあたり500ベクレルに設定したけど、ウクライナでは、毎日たくさん摂取する水は2ベクレル、毎日食べる野菜は40ベクレル、野菜よりは摂取量の少ない果物は70ベクレル、そして、肉は200ベクレル、魚は150ベクレルと、どれもニポンよりは遥かに厳しく設定してるし、それぞれの食材の摂取量まで考えて設定してるのだ。 さらに言えば、ニポンでは、大人も子供も500ベクレルを押し付けられてるけど、ウクライナでは、こうした基準とは別に「幼児の基準」が設けてあり、幼児はどんな食材でも「1kgあたり最大40ベクレル」と決められてる。つまり、1kgあたり200ベクレルの肉や150ベクレルの魚は、大人や大きな子供は食べてもいいけど、幼児には食べさせちゃいけないことになってる。 ~~
≪その1≫からの続き
スチュワーデスはお客様に不安感を与えないように、できるだけ冷静に行動していました。いろいろ聞かれても、「絶対大丈夫です。私たちはそれなりの訓練も受けています。絶対大丈夫です。」と答えていました。そのせいもあって、客室内がパニックに陥るようなことがなかったのだと思います。ただ、笑顔はもうなく、彼女たちの顔も緊張していたのですが。赤ちゃん用の小さいライフ・ベストが上の棚にあるのですが、このときにはもう、それを取りだす余裕はなく、大人用のベストをつけたと思います。 子供の声が聞こえました。「おかあさーん」という声。大きくはなかったのですが、短い叫びのような声でした。大人のお客様は叫んだり、悲鳴をあげたりすることはありませんでした。声も出なかったのかもしれません。不安と緊張の機内でした。 全員が救命胴衣をつけ終わるまでに五、六分かかりました。つけ終わっ方は、となりの方を手伝ったりしていました。救命胴衣をつけているあいだに、スチュワーデスの声でアナウンスがあったのです。正確には覚えていませんが、「急に着陸することが考えられますから」というような内容です。それと、「管制塔からの交信はキャッチできています」とも言っていました。私の想像では、二階席のアシスタント・パーサーが操縦室に入って、様子を聞いてきたのではないかと思います。落着いた声でした。 揺れはいっそう大きくなりました。もう立っていることはできないほどです。救命胴衣をつけ終わってすぐに、ほとんどいっせいに安全姿勢をとりました。そのときには、眼鏡をはずしたり、先のとがったものは座席ポケットにしまったりとか、上着があれば、衝撃の際の保護になるように着用してください、と指示するのですが、そんな時間的余裕はありませんでした。 私は「56C」にもどりました。L5のスチュワーデスは通路をはさんでふたつうしろの空席に座りました。安全姿勢は、頭を下げ、膝の中に入れて、足首をつかむんです。うしろのスチュワーデスも私も、席に座って大声で何度も言いました。「足首をつかんで、頭を膝の中に入れる!」「全身緊張!」。全身を緊張させるのは、衝撃にそなえるためです。こういうときは、「・・・してください」とは言いません。お相撲さんや、妊娠してお腹の大きい女性の場合、腰をかがめるのは苦痛ですから、逆に背中を伸ばして、脚でしっかり床を踏み、椅子の背に上体を押しつける安全姿勢のとり方があるのですが、このときにはそういう姿勢をしているお客様はいませんでした。 安全姿勢をとる直前、私はとなりのKさんに言いました。「緊急着陸して、私がもし動けなかったら、うしろのL5のドアを開けて、お客様をにがしてやってください」と。Kさんは「任せておいてください」と、とても冷静な声で言いました。Kさんと言葉をかわしたのは、これが最後です。 そして、そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。 頭を下げながら機内をちらっと見ると、たくさん垂れている酸素マスクのチューブの多くが、ピーンと下にひっぱられているのが見えました。マスクをつけたまま安全姿勢をとったお客様が大半だったのかもしれません。安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子が「キャーッ」と叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。 そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。 怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとり続けるしかない。汗をかいたかどうかも思いだせません。座席下の荷物が飛んだりしたかどうか、わかりません。体全体がかたく緊張して、きっと目をつむっていたんだと思います。「パーン」から墜落まで、32分間だったといいます。でも、長い時間でした。何時間にも感じる長さです。羽田にもどります、というアナウンスがないかな、とずっと待っていました。そういうアナウンスがあれば、操縦できるのだし、空港との連絡もとれているのだから、もう大丈夫だって。でも、なかった。 衝撃がありました。衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて、顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんに、です。音は、まったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。 衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前は、もやーっとしているだけです。墜落だ、と思いました。大変な事故を起こしたんだな、と思ったのは、このときでした。 すごく臭かった。機械の匂いです。油っぽいというより、機械室に入ったときに感じるような機械の匂いです。体は、ちょうど座席に座っているような姿勢です。左手と両脚は何か固いものにはさまれていて、動かせません。足裏は何かに触っていました。それほどの痛みはなく、もうぐったりしているという感じです。 目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。 呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。 墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手だけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったたので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。 どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。 それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。 突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。 やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。 涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。 気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。 そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。 目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。 家族がきていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機がおちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくさいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。 天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。 救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。 (吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より) 落合由美さんは日本航空の客室乗務員。当日は非番で123便に乗り合せていました。 ~~
このツイートから日航ジャンボ機が墜落して16時間という殺人的時間を確保したのはそのアリを殺す為だったのではないかと疑われているを読んだ。更に生存者の一人、落合由美さんの証言に飛んだが、バックが黒で目がチカチカするので以下にコピペ。
~~ 離陸してすぐ、私は機内に備え付けの女性週刊誌を読んでいました。女性や子供の姿が多く、いつもの大阪便とはちがうな、という印象はありました。私の席の周囲にも、若い女性の姿が目立った。禁煙のサインはすぐに消えたのですが、着席のサインが消えていたかどうか、はっきりしません。 そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても,耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。 音は、私のちょっとうしろの天井のあたりからしたように感じましたが、そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。 お客様からは、「うわっ」という声がした。女の人だと、「きゃっ」という、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。耳は,痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗ったときのような感じ。しかし、それもすぐに直りました。 「パーン」という音とほとんど同時に、酸素マスクが自動的に落ちてきた。ジャンボの場合、席の数プラス・エキストラのマスクが落ちてくるので、私の座っていた「56」の二席には三つありました。それが機内にいっせいに落ちてきたときは、マスクが、わんわんわん、とバウンドするような感じでした。ひっぱると、酸素が流れだして、口もとの袋がふくらむ。酸素が出てこないのもあったけれど、足りないということはありません。 ただちに録音してあるアナウンスで「ただいま緊急降下中。マスクをつけてください。」と日本語と英語で流れました。マスクのつけ方は、となり同士教えあって、あんがいスムーズにつけていました。 ベルトについての指示はなかった。お客様はまだベルトをしたままでした。煙草をすぐ消すように、という注意はアナウンスでも口頭でもありませんでしたが、禁煙のランプのサインは自動的についたようでした。あとで気がつくと、離陸してまもなく消えていたはずのサインがついていましたから。 しかし、緊急降下中といっても、体に感じるような急激な降下はありませんでした。急減圧のとき、酸素マスクがおちてくることは、もちろん知っていました。急減圧は何かがぶつかったり、衝撃があって、機体が壊れたときに起きると教わっていましたから、そういうことが起きたのだな、と考えたのですが、しかし、何が起きたのか想像もつきませんでした。酸素マスクが落ちてくる光景は、訓練では見ていますが,実際に経験するのは、もちろんこれがはじめてでした。 やはり「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。 私の席のすぐ前は、それほど濃くはなかったのですが、もっと前の座席番号「47」「48」あたりのところが濃かったように見えました。ふと見ると、前方スクリーンの左側通路にスチュワーデスが立っていたのですが、その姿がボヤ-ッと見えるだけでした。 その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。 匂いはありませんでした。こうした白い霧というか、靄のようなものが出るのは、急減圧の場合の現象だ、ということも、もちろん訓練のときに教わっていたことでした。はじめはスチュワーデスもそれぞれの席に座って酸素マスクをしていましたが、しばらくして、お客様のマスクを直したりして、まわっていました。そのときは、エキストラ・マスクをひぱって、口にあてていました。マスクのチューブは伸ばすと、けっこう伸びます。三列くらいはひとつのマスクをつけたまま、まわっていたようでした。 このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。 あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。 きょろきょろしていたとき、私は、トイレの上の横長の壁がほとんど全部、はずれていることに気がつきました。トイレのドアはしまっていましたが、その上の壁がすっぽりはずれて、屋根裏部屋のような感じで見えたのです。壁はちぎれたとか、破壊された、というふうではなく、継目が外れたと言う感じでした。壁のパネルがどこかにいったのかはわかりませんでした。 そして、壁のはずれた向こう側に、運動会で使うテントの生地のようなものが、ひらひらしているのが見えました。オフ・ホワイトの厚地の布のようなものです。ぴんと張ったのでもなく、ヒダの多いカーテンのようでもなく、一枚の布を垂らしたような感じでした。これもあとで整備の人に聞いたのですが、裏のほうには、そういう布があるのだそうです。それが破れたというふうではなく、風にあおられたように、ひらひらしていたのです。そこから機体の外が見えたとか、青空がのぞいた、ということはありませんでした。 もひとつ、私の頭上の少し前の天井に、整備用の50センチ四方の長方形の穴があって、蓋がついているのですが、その蓋が私のほうに向いて開いていることに気がつきました。壊れたのではなくて、何かのはずみで開いたという感じです。内部は暗く、何も見えませんでした。ただ天井の荷物入れが下に開くということはありませんでした。 このときにはお客様は全員、酸素マスクをつけていましたから、しゃべったりはしませんでした。酸素マスクをして、呼吸するのに懸命で、とても会話どころではなっかたのかもしれません。でも、とても不安そうにして、きょろきょろしたり、窓の外を見たりしていました。赤ちゃんの泣き声がしたかどうか、覚えていません。 いつ点灯したのか気付きませんでしたが、「EXIT」と「非常口」を示す、エマージェンシー・ライトはついていました。座席上の空気穴から空気が出ていたのかどうか、記憶にありません。ライトをつけていて人がいたかどうかも、覚えていないのです。時間的にはそろそろ暗くなるときですから、つけていてもおかしくないのですが、気がつきませんでした。 こうしているあいだも、飛行機が降下している感じは、ほとんどありませんでした。ゆっくりと左右に大きく旋回しているような動きがはじまったのは、酸素マスクをして、しばらくしてからです。 「パーン」という音から、たぶん10分くらいしてからのように思います。このころになって、酸素マスクをはずしてみても、苦しさは感じませんでした。ただ、ほとんどのお客様がマスクをしていましたが。 ダッチロールという言葉は、知りませんでした。飛行機はあいかわらず旋回をくり返すように左右の傾きをつづけます。振動などは全然ありません。とにかく、くり返し、左右に傾いているという揺れ方がつづきました。急な動きとか、ガタガタ揺れるというのでもなく、スローです。だんだん揺れが激しくなるというのでもありません。 私の席に近い左の窓から見えたのは、まっ白な雲だけでした。かなり厚い雲で、地上は見えませんでした。お客様は窓の外を眺めたり、なかにはスチュワーデスに「大丈夫か」とたずねる方もいました。機内の様子は、あわただしい雰囲気とかパニックなどということではなく、この段階では、まだ何とかなるんじゃないか、という気持ちがあったように思います。ただ、コックピットからの連絡は何もなくて、みんな不安な表情ではあったのです。 そのうちに酸素が出なくなりました。いつだったか、私がフライトをしていたとき、お客様から、酸素マスクは何分くらいもつのか、とたずねられたことがありました。全員が吸った場合、18分くらい、と計算したことがあります。そのくらいの時間が経過していたのかもしれません。でも、ほとんどのお客様は、そのままマスクをしていました。 ちょうどそのころになって、私のうしろのL5(最後部左側)ドア受持ちのスチュワーデスが、まわりのお客様に「座席の下にある救命胴衣を取りだして、つけてください」という指示を出しました。その指示がどこからきたのか、わかりません。ふだんのコックピットからの連絡はチーフ・パーサーを通じて各スチュワーデスに伝えられたり、急な場合は、乗務員席の電話が全部コックピットと同時につながって受けることができる「オール・コール」でくるのですが、今度の場合は、それはありませんでした。ライフ・ベストをつけるように、という指示は、機内アナウンスではなく、スチュワーデスの口頭で行っていました。まず、スチュワーデスが着用して、このようにつけるんです、と教えながら、座席をまわることになっています。今度も、そうしていました。 前のほうでも、いっせいにベストの着用がはじまっている様子が見えました。スチュワーデスは口頭で、座席ポケットのなかにある『安全のしおり』を見て,救命胴衣をつけてください、と言いながらまわりはじめました。私はすぐに座席下から救命胴衣をひっぱりだして頭からかぶりました。 私は羽田にもどれればいいな、と感じていました。しかし、まだ雲の上で、高度も高いし、ちょっと無理なんじゃないかな、とだんだん不安になってきました。しかし、ライフ・ベストが座席の下にあることがわからないお客様や、わっかても、ひっぱって取りだすことがわからないお客様も少なくありませんでした。私の近くにも、ベストの場所がわからなくて、取り乱している若い女性のたちがいました。そのときになって私は、席を立って、お客様のお手伝いをはじめたのです。お客様はこのときはじめて、座席ポケットのなかの『安全のしおり』を取りだしました。 私が席を立ったとき、となりの窓際の席にいた男性のKさんが「スチュワーデスの方ですか」と、声をかけました。私は「はい、そうです」と答えて、Kさんが救命胴衣をつけるのをお手伝いしました。とても冷静な方でした。ご自分のをつけ終わると、座席から手を伸ばして、前後のお客様の着用を手伝ってくださったのです。 私は通路に出て、L5のスチュワーデスの受持ちのお客様のお手伝いをして歩きました。彼女が私の席よりうしろのほうをまわり、私は、前のほう二列分くらいの左右のお客様を指示してまわりました。 しかし、このころになると、機体の揺れは、じっと立っていられないほどでした。激しい揺れ、というのではなくて、前と同じように、左右に傾く揺れなのですが、その角度が大きくなって、座席につかまって二、三歩、歩いて、お客様の座席の下のベストをひっぱて、ちょっと座って、また二、三歩という感じでした。まっすぐ歩いて、あたりを見てまわる、ということはもうできません。 救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。ひとりの方がふくらませると、そのとなりのお客様もふくらませてしまう。他のスチュワーデスも私も、それに私のとなりのKさんも、「ふくらませないで!」と叫びました。 機内にはまだいくらかの空席がありました。ひとりだけポツンと座っている人は、不安になったんだと思います。救命胴衣をつけているあいだに、席を詰めて、固まるようになりました。私は何も聞かれませんでしたが、制服を着ていたスチュワーデスはお客様からいろいろ質問されえいました。「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」。聞いていたのは男の方ばかりでした。家族連れの女性は、男の方が一緒だったせいでしょうか、そういう場合でも、男の人がいろいろ質問していました。 ≪その2≫へ続く
これも原発事故の影響かぁ。
和牛オーナー牧場が経営危機=会員3万人、原発事故が影響―栃木 ~~ 全国に約3万人の会員を抱える「和牛オーナー制度」運営の安愚楽牧場(栃木県那須町)が、福島第1原発事故に伴うセシウム汚染牛肉問題の影響で経営危機に陥っていることが分かった。東京商工リサーチによると、既に取引先への代金支払いを停止し、東京都内の弁護士事務所に1日、債権・債務調査を依頼した。3月末時点の負債は約620億円。 同牧場は1981年設立。繁殖牛のオーナーを募集し、生まれた子牛を買い取る独自の和牛オーナー制度が「高利回り金融商品」として投資家の人気を集めていた。北海道から沖縄まで40カ所で自社牧場を運営し、預託先牧場も338カ所に上る国内最大級の黒毛和牛牧場で、2011年3月期の売上高は1027億円に達していた。 ただ、宮崎県で10年に起きた口蹄(こうてい)疫問題で、管理していた約1万5000頭の牛を殺処分。加えて、原発事故による放射性セシウムが検出された牛肉が福島県内で見つかったことが響き、資金繰りが悪化したという。 ~~
4月5日までに放出された放射性物質は63万テラベクレル。チェルノブイリ事故の3分の1、広島原爆約200個分。
3月15日時点の放出量は約2000兆ベクレル/時、7月15日時点では240億ベクレル/日。 単位がバラバラだし、そもそもオーダーがデカ過ぎて分かり難い。
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